• HOME
  • 記事
  • フットサル
  • 「真面目で厳格」という“キャラクター設定”。日本代表監督の本当の顔|ブルーノ・ジャパンの肖像

「真面目で厳格」という“キャラクター設定”。日本代表監督の本当の顔|ブルーノ・ジャパンの肖像


日本代表を率いる監督、ブルーノ・ガルシア。

性格は「真面目」で「厳格」で、なおかつ勤勉だ。スペイン人の彼は日本人以上に日本人らしい。なぜなのか。そのルーツは、ブルーノが幼少期から取り組んできた競技にあった。

日本の国技、柔道だ。

柔道の才能に恵まれたブルーノは、1996年アトランタオリンピックにおける柔道スペイン代表の座を争うほどの実力者だった。

だから彼は“道”を重んじる日本人の心の在り方を、知っていた。

フットサルの指導者になったのは、ケガで柔道を離れたことがきっかけだった。競技者としては運に見放されたのかもしれない。だが、ブルーノの心にはいつもフットサルがあった。

数奇な運命をたどり、彼は今、日本代表を率いて自身2回目のW杯に挑む。

彼の生い立ち、キャリア、この5年間の指導。そのすべての道が、つながっている。もはや、彼以上に、日本フットサルの未来を託す人物はいないのではないかと思うほど、最高の監督だ。

およそ1年ぶりにオンライン上で彼と“再会”し、その思いは確信に変わった。自分が教えを受けていたあの頃となんら変わらない愛情と情熱。そして真面目さと、厳格さ。

ただ一つ、「選手と監督」という関係だけが変わった。その関係性の違いが、彼本来のキャラクターを浮き彫りにする。ブルーノの素顔──。

僕は10年来の友人に会ったように時間が経つのを忘れ、彼の深みのある言葉に耳を傾けた。

インタビュー・編集=渡邉知晃

※インタビューは8月25日にオンラインで実施しました

ブルーノ・ガルシアと渡邉知晃の邂逅

──普段の取材のイメージではなく、カフェで話している感じで、気楽にお話しできたらと思います。

わかりました。ではまず、カフェラテを頼んでもらっても?

──もちろん。後で僕が払うので、ホテルのルームサービスを頼んでください(笑)。

では、遠慮なくそうさせてもらいます。

──今日は、みんなが知らないブルーノ監督の素顔を引き出す使命が僕にはあります。ブルーノ監督とはグラン・アミーゴだと思っていますから、よろしくお願いします(笑)。

トモは私との関係性でアドバンテージがあると思います。日本代表チームで過ごしたり、ロッカールームやホテルの部屋でコーヒーを飲みながら話したりするなかで私の横顔を知っていますから。選手の引退後にそれを活用できることは素晴らしいです。これから続く後輩にとってもいい例になっていけると思います。

──ムチャス・グラシアス!(メモを見せながら)ここにいっぱい質問リストがあるので、早速質問してもいいですか?

もちろん。早速始めましょう!

柔道で世界を目指していた

──ブルーノ監督の人となりを知りたいのですが、幼少期はどんな子どもでしたか?

非常に活発で、体を動かすことや友達と遊ぶことが好きな子どもでした。テレビゲームもあった時代ですが、それよりもボールを使ったフットサル、バスケットボール、ハンドボールなどをしていました。

──どんな両親だったのでしょうか?

親の教育は本当に誇らしいです。今でも宝物と言える教育を受けたと思っています。勉強や学問だけではなく、心の教育、それに徳育、価値観の教育。私の家ではそこを強調して育ててもらいました。その教育があったおかげで、自分を律することができ、自分で判断・決断するときも、その価値観に基づいてパッと決めたり、アクションを取れたりする。成長する過程で迷わずに進むために必要なものを授けてもらいました。両親から受け継いだものは、本当に貴重な宝物です。

──子どもの頃から今と変わらず真面目だったんですか?

よくそういうことを聞いてくる人がいますが、その認識と実態は違います(笑)。日本代表では、監督としてのミッションがあるので、仕事に徹しています。私の他の側面も知っている人には、「真面目」だけではないことをわかってもらえるのですが……。

──それはどんな側面?

そうですね、たとえば時計を見ない。時計は大好きだし、集めるけど、時計を見ない習慣があります。どういうことかと言うと、仕事でも遊びでも、満足するまではやめない。質にこだわり没頭するから、時間を忘れるんです。オンでもオフでもそう。趣味も多いし、お酒も好き。特にワインが大好きで、パーティーにも繰り出します。趣味や好きなことに時間を費やすタレントで言えば、トモのボレーシュートよりも、たぶん私のほうが持っているくらい(笑)。

──それはどういう意味だろう(笑)。

実際に、普段の私をトモに見てもらいたいですね。帰国して、コロナ禍が落ち着いたら、ぜひプライベートで飲みに行きましょう。他の選手も、トモと同じようにプライベートな時間を共有したい。今は日本代表の立場もあるから簡単ではないですが。私が選んできたメンバーは、「地の果てまででも一緒に行ける」という選手たちだから、彼らには「日本代表監督」ではない私の一面も知ってもらいたいと思っています。

──そのときを楽しみにしています。

もちろんご馳走するので、羽を伸ばしに来てくれていいですよ。

──なんで飲みに行く話になったんでしたっけ(笑)。話を戻して、子どもの頃にどんなスポーツをしていましたか?

いろいろ取り組みましたが、本格的には柔道、サッカー、フットサル。アスリートとしては24歳くらいで現役を退いたのですが、それまでは並行して続けていました。

──なぜ柔道を?

きっかけは母親でした。日本における幼稚園で行われていた柔道教室を見つけてきました。当時、スペインではみんなサッカーやフットサルをしていたから、柔道はポピュラーなスポーツではなかったのに、どこでどう情報を仕入れたんだろう。結果的には、そこで柔道を始めてよかった。今でも私の心には柔道家としての精神、アイデンティティがあります。

──自己防衛のためにやったわけではない?

自衛ではなく、あくまでスポーツとして。実際にやってみたら、柔道にはスポーツとしての完全性がありました。心技体が磨かれ、美しく、素晴らしいスポーツだと。母親もそういった魅力にひかれて勧めてくれたのかなと思います。自分を守るために使ったことはありません。

──そこからどうしてフットサルの指導者に?

私のパッションはもともとフットサルにありました。でも、柔道ではガリシア州チャンピオンになったり、国内大会でメダルを獲得したりした。コーチからは、「上を目指すなら柔道が向いている」と言われ、柔道を選びました。スペインでは16歳の段階でどのスポーツへ本格的に進むかを選ぶのが通例なので、決めました。そこからの生活パターンは、体重制限があり、朝から晩まで練習があり、それ以外にも勉強すべきものがあり、きつい日々でした。それでも、少しのオフや空き時間があれば、フットサルの民間大会に出場してボールを蹴っていたくらい、心のどこかにいつもフットサルがありました。

──そのまま柔道を続けなかったんですね。

1996年のアトランタオリンピックに向けた柔道スペイン代表選考会では、選ばれるかどうかのところまでいったものの、大きなケガをしてしまいました。肩の手術をするかどうかの状態でしたが、手術をすると選考に間に合わない。だから痛みに耐えながらやっていったけどうまくいかず、治らず、オペもせず。そのときに、「このままいくと自分の思い描くようには進めない」と思ったのがきっかけとなりました。それで当時通っていた国立体育大学で、フットサルの勉強も継続していたこともあり、フットサル選手に戻り、その後、指導者の道に進みました。

関連記事